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激戦地ウーグモン農場の修復プロジェクトのスポンサーに。 ヨーロッパの中心で生き続けるブレゲ:ワーテルローの戦い1815-2015


 ワーテルローの戦いから200周年を迎えた今年、激戦地ウーグモン農場の修復プロジェクトで主要なスポンサーをブレゲが務めることになりました。戦いの最後を見届けたウーグモン農場をヨーロッパの平和と安定のシンボルにすべく、歴史的に重要な建物を修復し、ミュージアムとして活用することが2015年6月17日に発表されました。この発表には、ブレゲの社長兼CEOのマークA. ハイエックの他に、チャールズ皇太子、ウェリントン公爵、ブリュッヘル・フォン・ワールシュタット公、ナポレオン公シャルル殿下といったヨーロッパのロイヤル・ファミリーの方々が列席され、著名な政治家や世界の報道関係者が集いました。


 連合軍のウェリントン公爵は、ワーテルローの戦い(1815年6月18日)にとって、ウーグモン農場の占拠がこの対戦を決する鍵と考え、それがヨーロッパで20年に渡って繰り広げられた戦争に終止符を打つ結果となりました。ブレゲにとってもまた、このウーグモン農場の館は、特に重要な意味をもっていました。当時、ブレゲのメゾンと戦いで活躍した中心人物たちの間には密接な関係が築かれていたからです。ブレゲを愛顧した顧客には、ナポレオンの北部軍と、これに敵対した連合軍のどちらも含まれていました。その中で特に代表的な著名人といえば、もちろん皇帝ナポレオンとウェリントン公爵です。さらに、ナポレオン側には、グルーシー元帥やネイ元帥、ジェローム・ボナパルト、軍医総監ドミニク・ラレー男爵、ケラーマン将軍の名を挙げることができます。対戦する連合軍のアクスブリッジ伯爵やサマーセット卿、パーシー少佐、クック将軍、メイトランド将軍、ポンソンビー将軍もまた顧客に含まれ、さらには反ナポレオンのポッツォ・ディ・ボルゴもその一人でした。しかし、ワーテルローの戦いはまた、アブラアン-ルイ・ブレゲの名声を広め、その評価を大いに高める機会にもなりました。ブレゲは、ルイ18世にフランス国王の復権を見出し、心から崇拝すべき人物として賞賛しました。そして、ワーテルローの戦いからわずか数か月後の1815年10月27日、ブレゲはフランス王国海軍の時計師に任命されました。アブラアン-ルイ・ブレゲは、ここに至るまで40年も自身の時計会社の経営を続けてきました。1775年にパリで創設されたブレゲの時計会社は、ルイ16世や王妃マリー・アントワネットが君臨したフランス王国の宮廷で最初の成功を収めました。フランス革命の動乱期に、ブレゲはいったん出身地のスイスへと戻ります。ナポレオンによる帝政期は、皇帝一族のほとんどがブレゲの顧客になりました。ブレゲはまた、輸出にも取り組み、彼の時計はイギリスやスペイン、ロシアでも評判を得ました。ナポレオンの大陸封鎖令やロシアとの対戦によってその販路が阻まれたものの、ナポレオンが失脚すると、ルイ18世の庇護やウィーン会議で新体制のヨーロッパが生まれたことが会社にとって追い風になり、ブレゲはさらなる頂点に向かって発展を遂げました。


  アブラアン-ルイ・ブレゲは、現代の時計製造を誕生させることになる数多くの発明を技術とデザインの双方で成し遂げました。その発明には、ゴング・スプリングやモントレ・ア・タクト(触覚時計)、トゥールビヨン、クロノグラフなどがあります。ブレゲはまた、ナポレオンの妹にあたるナポリ王妃カロリーヌ・ミュラのために、1812年に初の腕時計も考案しました。ブレゲが作る時計のデザインは薄型で装飾も控えめながら、ギヨシェ文字盤やブレゲ針、フルート装飾のケースバンドなどが特色になっていました。


  現代のブレゲ社は、ウーグモン・プロジェクトの支援活動を通じて、自社の歴史やヨーロッパの歴史との関係をあらためて強調しています。このパートナーシップは、文化遺産の保存を財政的に支援するという、2005年に始まった社の方針の一環です。そこには、ヴェルサイユ宮殿にマリー・アントワネットが所有していたプチ・トリアノンやフランス式パヴィリオンの修復に関する全面的な財政支援や、ルーヴル美術館の美術工芸部門の18世紀サロンの修復を援助する主要スポンサー、パリの王立海軍博物館の海軍航空隊に捧げたホール建設の財政支援、ファイン・アート・ミュージアム・オブ・サンフランシスコのサロン・ドーレの創設支援などが含まれます。

  2015年6月17日、ウーグモン農場の修復とブレゲ・サロンの開設を告げる記念式典は、ウェリントン公爵、ブリュッヘル・フォン・ワールシュタット公、ナポレオン公シャルル殿下の間で交わされた、和解を象徴する握手もって幕を閉じました。記念行事が行われた6月17日から20日に、「ヨーロッパの中心で生き続けるブレゲ」と題された一連の講演が催され、ベルギーのワーテルロー委員会の会長を務めるベルナール・スノイ卿は、ブレゲと軍団のリーダーたちとの類まれな関係や、ウィーン会議(1814-1815年)に参集したヨーロパ列強国の大使たちとの関係を詳しく取り上げました。これは、ヨーロッパにおいてブレゲとその時計がいかに重要な地位を占めていたかを強く印象づけることとなりました。

※2015年6月時点での情報です。掲載当時の情報のため、変更されている可能性がございます。ご了承ください。

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